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打ってほしいところに打つビート、踏んでほしいところに踏まれる言葉

気温39度近くまで上った蕩けそうな真夏の日の夜中、「話題になってる」ということだけを知っていたヒップホップ・グループ、フラッシュバックスを池袋のライブハウスで観た。DJのキッド・フレシノはその小柄な体を大きく揺らしながら、適度なポイントでスクラッチ/カットしながらCDJからトラックを流す。その間を縫うようにMCのヤングメイソンことフェブとJJJがラップしながら飛び跳ねる。打ってほしいところに打つビート、踏んでほしいところに踏まれる言葉。それに頭と体を揺らしてたら日本語ラップに詳しい友人が耳打ちをしてきた。

「今までさ、様々な先達がいかに日本語でスムーズにラップするかを追求してきたわけじゃない? でも、この人たちがそれをスルってやっちゃったわけよ」

僕はその歴史についてなんとなくしか知らないし、その意見が正しいのかはわからない。再び目の前で軽やかにライヴする、自分より遥かに若い2MC&1DJを見る。いわゆる「ウマい」とはこういうのを指すのだろう。でも、ジョーズ、ヘタなんてどうでもよかった。そのトラックとラップのフロウが、ただひたすら気持ちよかったからである。

彼らのアルバムは2枚組LP版を買った。物販でそれしか売ってなかったから。でも、これが正解だったように思う。CDとは違うレコード向けのマスタリングが施されているようで、マッドリブやJ・ディラのプロデュース曲のようにどこかアンバランスでくぐもった部分がより強調されて聞こえるからだ(聴き比べたわけではないけど)。

基本は90s、サンプルのループ・ド・ループ。唐突に入る狂ったような電子音のシーケンス。その一音一音の隙間を縫うようにもしくは埋もれるように発せられるラップのフロウ。そのすべてが魅力的だ。本来ならば歌詞カードが付いてるんだから、リリックについて触れるべきなんだろうが、それを解析して文章化する能力が恐ろしく欠如してるので、ラップとトラックがお互い分離しながらも無理矢理溶かしてるようなトータルな音像としての気持ち良さを個人的にはとりたい。

ちなみに本作の制作時にはまだ参加していなかったフレシノのソロアルバムはまだ聴いていない。今はもう少しコレだけ。レコードの溝に針を落とすたび、ただ、音の冷たい快楽性だけを感ず。


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Fla$hBackS
『FL$8KS』
(FL$Nation & Cracks Brothers.Co.Ltd/Jazzy Sport)

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霊的な熱帯雨林が産み出す気配は人を虜にする

例えば、20年近く愛聴している、元・スペースメン3のソニック・ブーム率いるスペクトラムの1stアルバム『Soul Kiss(Glide Divine)』。この上なくポップで美しい歌ものの1曲目の「How You Satisfy Me」が終わると、あとの2曲目以降はその曲の残響音で作られたようなサイケデリック・アンビエントが延々と最後まで続く。

もう一つ。最近中古で買ったルーク・ヘスの『Keep On』。ムーディーマン以降、つまりセオ・パリッシュ、オマー・Sらへと連綿と続くデトロイト・ハウスの血を受け継ぎ(まさにキープ・オン!)ながらも、そこにミニマル・ダブの要素を入れ込んだようなアルバムである。ラスト12曲目、「Inheritance」が終わると無音状態になり、やがてモヤッとしたドローン・サウンドみたいのが何分か響き、唐突に終わる。

この2枚のアルバムに共通して感じるのは、一つの楽曲、それが集まったアルバムが再生し終了した後に残る余韻、そして何よりも「気配」だ。ホスピタル・プロダクションから79本限定でリリースされたというカセットを12インチEP化した、レインフォレスト・スピリチュアル・エンスレイヴメント(以下、RSE)の本作はまさしくその「気配」だけで出来ているようなアンビエント・ドローンである。しかし、それは前述のように楽曲や盤そのものから派生しているというよりも、RSEの首謀者であるドミニク・フェルナウの一連の活動がその元となっているのではないだろうか。

ハーシュノイズとインダストリアル・ロックを行き来するプルリアントをメインに、脅迫的に反復するリズムとピープー鳴ってるシンセがかつてのミニマル・テクノを思い起こさせるヴァチカン・シャドウ。また、ジョイ・ディヴィジョンを現代によみがえらせたような(そんなの腐るほどいるが)コールド・ケイヴの他、アッシュ・プールというブラック・メタル・バンド、ザ・ニュー・ブロッケイダーズのリチャード・ルペナスを中心とした不定形ノイズ・ユニット、ニヒリスト・アソルト・グループなどへの参加など、多岐のジャンルへ跨がって活動する彼だが、いわゆる「ジャンルの壁を破壊しよう」みたいなものは感じない。むしろ、その壁を感じながら、持てるだけの自分のヒマと財力(前述のホスピタル・プロダクションはドミニク主宰のレーベル。音楽性も前述のようなこんがらがり具合を反映している)で、その時々にそれぞれの文脈やセオリーに忠実にやりたいものをやってたら、結果論としてそうなってしまった感じだ。

プルリエントは数年前に出た『電子雑音』最終号でのアメリカ新世代ノイズ特集で取り上げられたりしてたので知ってはいたが、個人的に彼の音楽をきちんと聴きだしたのはヴァチカン・シャドウが騒がれだしてからなので、実は最近。しかも、そのほとんどが限定盤で聴こうにも聴けないものも多い。だから、ドミニク・フェルナウが作り出す音楽についてデカい口も叩く資格もないのだが、それでも言いたい。

ジャンルは融合しない。常にチグハグとして線を引かれた上で、お互いを睨みつけながら差異化する。
その軋みから生まれる不協和音、それこそがドミニクがRSEとして醸し出す気配の正体なのかもしれない。

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Rainforest Spiritual Enslavement
「Black Magic Cannot Cross Water」
(Blackest Ever Black ‎– BLACKEST015)

シャッフルマスター・カナモリの夢は夜ひらく

 「90年代後半、日本のテクノシーンを牽引した重要人物の一人、DJシャッフルマスターが復活、カナモリ名義でアルバムを出す! 」という報に、かつてはテクノ専門学校生(ただし中退)だった僕も色めき立った一人だ。しかし「いやあ、彼の曲を聴くのは久しぶりだなあ」と記憶を辿った時、ある事実に思い至ったのである。

「俺、シャッフルマスターの曲、ちゃんと聴いたことないかもしんまい」

そうなのだ、聴いたことないのだ。DJプレイも聴いた覚えがない。カナモリがDJシャッフルマスターとしてブイブイ言わせていた時期は、僕のテクノ熱は下がっており、(前にも書いた気がするが)アレック・エンパイアの来日時に共演していたメルツバウのライブ、もしくはガバDJとハードコアのバンドを突き合わせていたイベント「マーダーハウス」などを通じて、U.G.マン、スライト・スラッパーズ、メルト・バナナなどのライブを見て、わけもわからずにそっち関係に興味を持ち始めた時期に当たるから。

ただ、彼が参加していたレーベル兼ユニット、サブヴォイス・エレクトロニック・ミュージックは本当に好きだった。特に「Vampirella」は今でも色褪せないジャパニーズ・テクノのクラシックだと、紫のカラーレコードに針を落とすたびに思う。しかし、10年以上経ってから知ったが、実はこの曲は相方の佐久間英夫によるものらしい。となると、旧『エレキング』で本名の金森達也名義で書いた、クリスチャン・ヴォーゲルへのインタビューを軸にしたシカゴ・ハウスの記事が素晴らしいけど、音楽そのものじゃないからなあ……。

それはともかく、2枚組LP+(同内容の)CDというフォーマットで発売された本作。いざ聴いてみると、ミニマルという軸は変わらないが、アフリカン・リズムにダブっぽい音響処理、かつインダストリアル、ドローンな質感を混ぜ合わせたような、まさに今っぽいといやあ今っぽいエクスペリメンタル・テクノ。とはいえ、B面の「Vento Soffia Da Est,Una Sera Di Tokio」のアシッドなベースラインに、サブヴォイスのライブPAで、実機のTB-303をけたたましく鳴らしたあの響きを思い出したりも。

「今っぽさ」へのベテラン組のアプローチという点で言えば、前述した流れのダークホース的なレーベルのひとつ、NNAテープスからリリースされた、サージョンことアンソニー・チャイルドが自身の未発表曲を再構築してドローンに仕立てた『The Space Between People and Things』。もしくはNYで303/606/909をシンクさせてポスト・ハードコア(テクノ)〜プレ・ハード・ミニマル……要はX-103みたいな直情的なテクノをカマしていたX-クラッシュの片割れ、アダム・Xがよりそっち方向によりブレたADMX-71名義の『Second System』とも共振すると思う。

しかし、本作はサージョンともアダム・Xの最近の指向とはどこか違う。その異化作用を高めているのは、カメラマンの星玄人が90年代の歌舞伎町や黄金町、西成といった街の夜行性の生き物たちの蠢きの瞬間を捉えた写真を、石黒景太がデザインしたゲートフォールド仕様のジャケットおよびブックレットであろう。写真自体は90年代に撮影されたもののようだが、モノクロで粒子が粗く、また石黒の帯を含めた文字のフォントと配置の絶妙さもあり、まるで80年初頭の自主盤のジャケのよう。

『夜半解体』という邦題が示すように、本作のコンセプトはざっと言えば「夜のサウンドトラック」なのだと思う。だが、ここでいう「夜」とは、当時、DJシャッフルマスターとしてカナモリが鳴らした電子音で様々な人が踊っていたクラブ・カルチャーとしてのナイトライフを指すのではない。クラブと同じく風営法の対象である性風俗産業の男と女(同性同士も含む)が織りなしたもう一夜のおとぎ話なのではないだろうか。

常に夜は夢ひらく。そう考えてみると、D面の「It seemed that they vanished among Maniac Love」は、今は亡き青山のクラブを指すのだろうが、実は文字通りマニアックなラヴの在り方をも指すのかもしれない。

まあ、我ながらその見立ては考え過ぎかなとも思う。ともあれ、サブヴォイス時代から「DJがかけやすいトラックと最低限のパッケージやインフォ、それさえあればイイ。いや、トラックさえあればそれだけでも構わない」とばかりに、ダンス・ミュージックとしての強度を最優先していたように見えたカナモリが、12年もの時を超えて、このように視覚性とコンセプシャルな音を強く打ち出した作品を出してきたのが感慨深い。無駄にボケっと生きてみるもんである。


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Kanamori
『Dismantled Desire』
(四季協会 Shiki Kyokai October Autumn)

テーマ : ワールド・ミュージック
ジャンル : 音楽

なまこじょしこおせえの卵子の成れの果て

この2月に再発された『なまこじょしこおせえ』(または『賣国心』『Infecund Infection』)は、1982年、前衛音楽集団「第五列」のデクやオニックらを中心に、ガセネタ〜タコの大里俊晴、アー・ムジーク、園田佐登志、デヴィッド・トゥープ&スティーブ・ペレスフォードといった人たちが参加し、ピナコテカ・レコードから自主制作盤として発売されたオムニバス・アルバムである。

長年、幻の名盤とされていた本作。実は以前、第五列のホームページがあったとき、数多の関連音源や自主出版物とともにフリー・ダウンロードで公開されていたので、とりあえず一聴はしてたのだが、改めて聞き直して思ったことがある。それは彼らがやっていた即興、もしくはフリー・ミュージックというものをジャンルとして捉えるならば、この時だけに通用してただけのものだと思うが、「なんだかよくわからないけど、とにかく何でもいいから音を出してみよう」という精神性と「曲としてカタチになってるのかよくわからないモノ」というナンセンスの魅力においては、今でも十分通ずるものではないか、ということ。

『なまこじょしこおせえ』の30年ぶりの再発と、(大まかに)時を同じくして、マシューデイヴィッドのレーベル、リーヴィングのコンピ『Dual Form』に編まれたサイクリスト、オッド・ノズダム、ラン・DMT、サン・アロウ、トランス・ファーマーズ、ディンテル、ドリーム・ラヴといった連中が繰り出す音は、前述の精神性とナンセンスの魅力だけがあふれている。テクノ、アンビエント、ヒップホップ、ベース・ミュージックという型を守りつつも、どことなくボヤけていてつかみようがない。

よって、どれをとってこうだ、という曲はないのだが、あえて特筆するならば、他のレビューでも指摘されているように、肝心の演奏よりも客の拍手や歓声の方がデカい、ジュリア・ホルターによるアーサー・ラッセルの「You & Me Both」のカヴァーだろう。

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L:V.A.『なまこじょしこおせえ』(Super Fuji FJSP-185)
R:V.A.『Dual Form』(Leaving/Stones Throw STH-236)


そもそも現代音楽畑でチェリストとして演奏をしていたラッセルが、ディスコ・ミュージック方向にズレていったのはダンスフロアでの体験だった。

DJがレコードをかける、その溝から信号として伝わった音がスピーカーから大音量でフロアに放たれる。フロアにいる人間はそれに反応する。体を動かし嬌声をあげる。そのリズムに合わせて手拍子を打つ者も、その歌詞に合わせて歌う者もいるだろう。その他息づかい、体臭ほか諸々。

つまり、音楽そのものもあるだろうが、ディスコという空間の中でレコードから機材、人間、生(ラッセルは同時に自らのセクシュアリティも変更したらしいので「性」も含む)といった様々なフィルターを通された果てに聴覚を刺激する音──ダンスフロアで受けたその衝撃を他人に忠実に伝えようとしたあまり、ラッセルが中心となって制作されたディスコ・レコードは「ダンスする音楽」としては、あまりにフックがない抽象的で感覚的なモノになったわけだが、ホルターはその感覚にオマージュを捧げているのだと思う。

なにより、原音よりフィルターを通した音響効果を重視するという視点は、以前にも書いたようにマシューデヴィッドの個性そのものだ。そんな彼のレーベルらしく、なにかのフォーマットに合わせながらも、結果論としてのあやふやでつかみようのない、なんともいえない音楽。

もちろん、この2枚は違う、音楽性も時代も背景も。ただ『なまこじょしこおせえ』のライナー中に、アイス9の「メロダイン」という曲に対して、バンドのメンバーが書いたものにこんな記述がある。

「純化し、先鋭化し、やせ細り、閉じて極へたどり着きたいという気持ちがある。誰も知らない言葉を所有したいという淫らな願望。
これを否定するもう一つの気持ちがある。皆と笑いたい。たった一人で遠い山まで行き着いてもそれが何だ、という気持ち。
ICE9であることは、この二つの気持ちのバランスを取るのに効率的なように見えました」

この「ICE9」という固有名詞を前出のマシューディヴィッドやジュリア・ホルター以下のアーティストはもちろん、引き合いに出したアーサー・ラッセルに変えてみてはどうだろう?

またリーヴィングと同じく、カセットテープ中心のリリースを重ねているイギリスのホットカーを拠点とする、広義の意味でのテクノ・レーベル、オパール・テープスのコンピ『Cold Holiday』に収録された、ベーシック・ハウス、タフ・シャーム(ドロ・キャリー)、ヒュールコ・S、クラウドフェイスほか。または以前紹介した日本語ラップ・オムニバス『かなへびコンピ』の第二弾に参加した3.2ch、マペト、ハイトビーツらに変えても通じるものではないだろうか。

『なまこじょしこおせえ』が吐き出した卵子が受精して出来たものとして、そこらへんのセレクトが正しいのか間違ってるのかは自分でもよくわからないが、とにかく、今のところはそんな気がする。

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L:V.A.『Cold Holiday』(Opal Tapes OPAL015)
R:V.A.『かなへび屋/かなへびコンピ2013冬』(かなへび屋)

無為な自然音も過剰に加工された人工的なノイズも皆同じ、差別なし

もう、10年くらい前になるだろうか。ストラグル・フォー・プライドのライブで奇妙なものを観た。

沼袋のスタジオでのライブだった思うが、前のバンドが終わり、セッティングを始めた彼らは、左右に振り分けられたギターとベースのアンプを移動させステージの真ん中でくっつけて、ドラムセットを隠してしまったのだ。いざライブが始まると、アンプからハウリング音や各楽器のエフェクト音が大音量で鳴る。ボーカルはマイクに向かって叫び、ドラムはブラスト・ビートを叩いているようだが、アンプからの雑音にかき消されてほとんど聞こえない。いつもなら暴動のようになるストラグルのライブだが、この時の客は皆どういう反応をしていいのかわからず、ほとんど棒立ちだったと記憶する。

それから数年して気づいたのだが、あれは実験だったのだ。一言に「実験」と言っても様々な解釈がある訳だが、ストラグルの場合、いかに他人に届かせるかということにおいて。つまりは「自分たちが音楽、とりわけハードコア・パンクについて考えてるのはこういうことです」。

カリフォルニアの2人組ブラック・メタル・バンド、スーテック・ヘクセンがやっていることはまさにそれだ。特に初期のシングル3枚をコンパイルした『Empyräisch』の溝に刻まれているのは、コントロールを失ったようなディストーション・ノイズ。ペイント・イット・ブラック!黒く塗りつぶせ! でも、そのベタ塗りの仕上げは雑でところどころ余白が。そこに入って埋め合わせているのがブラストビートと亡霊の阿鼻叫喚を思わせるようなボーカルである。それをもって完成と成してるわけだが、ミキサーの普通だったらフェイダーを上げちゃいけないチャンネルのレベルメーターだけが赤になってる感じ。とにかく異様なまでにアンバランスな音楽なのである。

また、下の動画を観る限り、スーテックのライブはツインギターの演奏に、さらにギターをアンプにハウリングさせたり、変な自作パーカッション(?)を叩いたり、ローランドのSP-404みたいな簡易サンプラーからポン出しでビートループやSEを流すという形式で行われているようで、そこらへんにあるものでなんとかしていくようなプリミティブな感じも、前述のストラグルのライブの音の出し方とも共通しているのではないだろうか。



話を『Empyräisch』に戻そう。本作は楽曲云々で語るものでもないと思うが、強いて特筆するなら、イントロに教会の鐘の音に木が燃えるような音のSEが挿入されているA-2「Murmur」だろう。もちろん、このSEはブラック・メタルの悪名が轟くきっかけとなった、バーズムのカウント・グリシュナク(ヴェルグ)が起こした教会放火事件のオマージュと思われる。正直まだそんなことやってるのかよ、と思わなくもないが、メンバーのケヴィン・ギャン・ユエンは『Crustcake』のインタビューで「スーテック・ヘクセン結成前から、街中や山を歩いてはフィールド・レコーディングをしていた」と語り、「フィールド・レコーディングやノイズのテクニックはクリス・ワトソン、秋田昌美、ポウ・トーレスのような人たちが発明したり発見したものだが、それはニューロシスおよび別ユニットのトライブス・オブ・ニューロット、スワンズ、ウルヴェルといったバンドが出す音とも同じように聞こえるんだ」というようなことも語っている。つまり、無為な自然音も過剰に加工された人工的なノイズもヘヴィーで禍々しい音として同一線上に存在しているところが、本作の一番の魅力なのだと思う。

しかし、その後のスーテックは違う方向へ進んでるようだ。『Luciform』('11)で壮大にノイズ・ブラック・メタルをけたたましくならした後は、『Behind The Throne』('12)は曲も長尺になり、過剰なハーシュ・ノイズはアンビエンスを深めビートレスに。さらに『Larvae』('12)ではマスタリング・エンジニアに、サン・O)))のスティーブン・オマリーらとカネイトで激重ドゥーム・メタルを追求し、解散後はドローン関係のマスタリング/制作も多く手がけるジェイムス・プロトキンを迎え、徐々に…というかギンギンにドローン・メタル方面に前のめりなご様子。しかも最新作『Breed In Me The Darkness』は「The Second Coming Mixes By Andrew Liles」というサブタイトルが示すように、ナース・ウィズ・ウーンドのサポート・メンバーでもある実験音楽家、アンドリュー・ライルズが参加。この共作アルバムは昨年秋にカセットテープで出て即完売。2枚組LPおよびCD化も予定されているが、まだ日本に入ってこないので、試聴段階で言わせてもらえば、まるで『Empyräisch』が白黒反転したようなアンビエント・ドローン、いやヘタしたらポスト・クラシカルと言っていいくらいだ。



そもそも、ドローン・メタルという音楽自体、その祖であるアースのディラン・カールソン曰く「メタル・ミュージック(註:具体的にはメルヴィンズのようなスラッジ系らしい)とラ・モンテ・ヤングのミニマル・ミュージックの融合」というコンセプトから始まったというし、そのアースのトリビュート・バンドである、前出のサン・0)))のスティーブン・オマリーがエディション・メゴ主宰のピタとKTL結成以降、電子/実験音楽関係に大きくコミットしたりするような流れともリンクしているようで、それはそれで興味深くはあるのだが、スーテックの場合、前が前なので少し収まりが良くなっちゃったかなという感も否めない。

しかし、個人的にはその変遷をリアルタイムで追っかけた訳ではなく、むしろ遡って聴いたせいか、この流れは必然だったようにも思うのだ。「自分たちが考える音楽、とりわけヘヴィ・ミュージック」のあり方が変わったのだろう。ノイズ・ブラックからアンビエント・ドローン、果てはポスト・クラシカル。すなわち今は極から極へ行くか行かないかの過渡期とも言える。はてさてスーテック・ヘクセンがさらに転がり続ける先とは?
 
sutekh.jpg

Sutekh Hexen
『Empyräisch』
(Vendetta Records Vendetta 69)

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「ピュアなエレクトロニック・ミュージック」という小綺麗さにまとまらない陰のさらに影の部分を

パイ・コーナー・オーディオ(以下PCA)とは、マット・ジョンソンやトレヴァー・ジャクソンを始めとして、様々なジャンルの作品に携わってきたロンドンのミロコ・スタジオ所属のエンジニア兼マニュピレーター、マーティン・ジェンキンスの別名であり、自らが主宰するレーベル、パイ・コーナー・オーディオ・トランスクリプション・サーヴィスからのカセットシリーズ『The Black Mill Tapes』(うち2本がタイプから2枚組LPで再発)に続く、初の本格的なアルバムとなる。

そもそも、BBCのテレビ番組の映像と音響効果に影響を受け、ギターのフィードバック音をMTRで多重録音し始めたという、マーティン=PCAの魅力とは、シンセの鍵盤のタッチの強弱やミックスによって音の遠近感を織り込んだようなアンビエント・ドローンと、こないだ来日したダニエル・バルデリだったら喜んでプレイしそうなユルくニブい四つ打ち──つまりはただ一つの鍵盤のキー、もしくはドラム・マシンのパッドから広がる音の粒子的な広がりと、カセット・テープ特有のざらついたヒスノイズで包んだ侘び寂びな音響空間にある。また、BBCの映像云々という影響源と絡めて言うならば、『Black Mill Tapes』シリーズも含め、ジャケットのアートワークの素晴らしさにも触れておくべきだろう。まさに隅々まで鑑賞すべき音楽なのだ。


だが、もし、これを鑑賞物とするならば、もう一つの側面も書いておかなければならない。「ピュアなエレクトロニック・ミュージック」という小綺麗さにまとまらない陰のさらに影の部分を。

インタビューによれば、PCAの音楽制作の軸となっているのは前出のカセットのタイトルである「黒いミル・テープ」なるものだ。本人曰く「それは録音のコレクションで、1970年代終わりから1980年代半ば頃のもの。それらは、ヘッド・テクニシャンによって愛をこめて復元されアーカイブに保管された」のだという。

実際『Black Mill Tapes』の裏ジャケには「A selection of 1/4" and cassette tapes sourced and transferred by our Head Technician.」。『Sleep Games』では「Recorded and Produced At Black Mill By Head Technician with Assistance From Martin Jenkins」とクレジットされている。つまり、あくまでマーティンはアシスタント、PCAの音楽は自分以外の誰かがが作ったということらしい。
だが、言うまでもなく、ヘッド・テクニシャンとはマーティン自身のことである(ちなみに「ヘッド」とは「頭脳」と「テープヘッド」のダブルミーニングと思われる)。それにしても、彼がフェイバリットに挙げるドレクシアのように匿名性を遵守した上でというならともかく、自らのキャリアも憂いを帯びたような顔写真も公開しておきながら、なんなんだろう、まどろっこしい設定は?

彼はインタビューで主な影響として、ドレクシアの他、初期ヒューマン・リーグ(ザ・フューチャー)、ジョン・カーペンター、クラフトワーク、ハルモニア、カール・クレイグなどを挙げていて、そこらへんはまあわかるんだが、オールタイムベストには以下のものを挙げている。

・The Rolling Stones - Their Satanic Majesties Request
・The Pretty Things - S.F. Sorrow
・Black Sabbath - Black Sabbath
・Led Zeppelin - Led Zeppelin I
・Harmonia - Muzik von Harmonia

……って、ハルモニア以外ベクトルが全然違うじゃねえか! そんな意見もあろう(個人的にそう思っただけだが)。しかし、これらのアルバムとPCAにはいくつもの共通点がある。それは「こことは違うどこか」としてのSF、オカルティズムやドラッグなどを通した異世界指向。何よりも音の間を活かしたエンジニアリングや実験的なアプローチ。そして、なによりとってつけたような過剰なテーマやイメージを打ち出したコンセプシャルなものであるということ。それらへの憧憬がマーティンがPCAをフィクションで包んだ理由なのではないだろうか。

なお、SFという観点でひとつ付け加えておくと『Sleep Games』のライナーにはJ.G.バラードからの引用が載っている。また自分の心にある別人格という視点に立つならば、PCAとヘッド・テクニシャンとマーティンの関係性はフィリップ・K・ディックっぽいような気も……。

実は個人的にバラードもディックも代表作と言われるものを読んだくらいのもので、実はあんまよく知らないのだが、バラードの言葉でこんなものがある。

もし誰も書かなければ、私が書くつもりでいるのだが、最初の真のSF小説とは、アムネジア(健忘症、あるいは記憶を失った)の男が浜辺に寝ころび、錆びた自転車の車輪を眺めながら、自分とそれとの関係の中にある絶対的な本質をつかもうとする、そんな話になるはずだ。
(Wikipedia)

その言葉に倣うなら、その対象が「錆びた自転車の車輪」ではなく、雑然と積まれた古ぼけた1/4インチテープとカセットテープだったらどうであろう? マーティンは自分を無にし、ヘッド・テクニシャンとPCAのコンセプトを作り上げ、自分と音楽の関係性の絶対的な本質をつかみ描こうとしたのだ。そんな気がしてならない。

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Pye Corner Audio
L:『Sleep Games』(Ghost Box)
R:『The Black Mill Tapes Volumes 1 & 2』(Type)

怒りて言う、音像のショック感こそすべて

ハイプ・ウィリアムスの黒い方、ディーン・ブラントのアルバムはソロとして初めての作品にも関わらず、当然のように本体とほとんど代わり映えがない印象を受ける。どっかで聞いたような不協和音が鳴り響くホラーシネマ・コア「Direct Line」。テキトーに打ち込まれ弾かれたシンセとリズムとギター、そして相方のインガ・コープランドの歌が陰鬱な気分にさせる「The Narcissist」。また、本作ではブラントが積極的にボーカルをとっているのだが、ラストの「Coroner」では、以前「ラップは嫌い」とインタビューで言ってたにも関わらず、さらにだらしなくなったリル・Bみたいなラップまで披露。大事なネジが緩んで崩壊寸前なドローン・シンセ・ポップが、ボンヤリとした音像でただ雑然と刻まれた溝に記録されている。

公式なのか海賊なのかわからないが、ドイツ(ただし、ジャケには「Made In England」というシールが貼ってある)のレーベルから、750枚限定でリリースされたザ・ゲロゲリゲゲゲの編集盤LPもそれと似た感触だ。タイトルのネーミングセンスも含め、デ・ラ・ソウルの1stとともに「これでいいんだ」と
初期暴力温泉芸者に影響(勇気?)を与えたであろう「Gero-P 1985」「Gay Sex Can Be AIDS」での取ってつけたようなハーシュノイズとサンプリング・コラージュ。以前、ゲロゲリについて書いたときにも触れたカットアップ「古川緑波」。初期グリーン・ヴェルヴェットの変態スポークン・ハウスを思わせる「Life document 2」、『パンクの鬼』をさらにしょぼくしたようなカウンティング・グラインド・ノイズ「All You Need Is An Audio Shock Pt. 1」などが、ただ雑然と溝に記録されている。

時代も立ち位置もジャンルも音楽性のベクトルも違う両者だが、(こじつけるなら)一つ共通する印象がある。それは自分が生み出したモノが一つの形となって、それがどういう形でも他人の耳に入れば、あとはどうでもいい、そっちの好きにしいやという姿勢だ。それはエリック・ドルフィーの遺作『Last Date』のラスト曲に入る有名な台詞「音楽は空に消え、二度と捉えることは出来ない」であったり、安藤昇の名曲「男が死んで行く時に」の一節からとられた、渡邉浩一郎の追悼盤のタイトル『まとめてアバヨを云わせてもらうぜ』という言葉が持つ意味とも同義であると思う。

無理にタグ付けするならば、ブラントおよびハイプ・ウィリアムスはシンセ・ウェイブ、ゲロゲリならばノイズというジャンルに属すると思うのだが、それぞれの看板を背負うほど際立った何かがあるわけではない。ジャンルとして成立する前──つまりは音楽として成っちゃなくとも完成形として出していく感覚が前につんのめってるように思える。それは思わせぶりなニヒリズムさえ入る余地もなく「ただ、自分が作った音が盤に刻まれている」ということ。てんでバラバラな一曲一曲が産み出すことによって生まれる混沌こそが、この2作の魅力なのだ。

年間ベストに入れたレイムや、ホワイトハウスのウィリアム・ベネットの別ユニット、カットハンズなどをリリースし、また、踊らせたいのか引きこもらせたいのかわからない選曲のDJミックステープで知られるレーベル、ブラッケスト・エヴァー・ブラック主宰者のキラン・サンデ(『Fact』編集者だったのには少し納得)は、『Resident Advisor』でのメールインタビューでこんなことを綴っている。

ハウスやダブステップのプロデューサーが創る音楽がほんとうは何のために創られているのかを厳しく追究する奴もいない。それが「何のために」という目的で創られているものじゃないし、そうあるべく創られたものじゃないってことを俺たちは暗黙のうちに了解してるからさ。でも、しばらくすると結局みんなそういう「何のために」っていう中味を知りたがるようになるもんなんだ。違うかい? いまのところ、俺個人としては挑発されていたいし、夢を見ていたいし、愚かに混乱させられた状態のままでありたいんだ。

個人的にはいずれも擦り切れるほど聞きまくるという類いのものではないが、愚かに混乱させられた状態のままでありたいときに、自分はこの2枚のレコードのいずれかに針を落とすだろう。

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L:Dean Blunt『The Narcissist II』(Hippos In Tanks HIT022)
R:The Gerogerigegege『All You Need Is An Audio Shock By Japanese Ultra Shit Band』(Audio Shock Recordings SHOCK1) 




実験とは挑発とは声をデカくして訴えるものではない

「悪かないけど、この人が持っているサウスやGファンク特有のドロっとした感じが無くなっちゃったな」
約2年ぶりとなるアウトキャストのビッグ・ボーイの2ndソロアルバムを聴いたときに、そんなことを思った。しかし、だ。本作を何度か聴いているうちに、ビッグ・ボーイが掲示した「これ」がいかに実験的で挑発的か、そして自分の頭がいかに凝り固まってるかにということに気づいたのである。

本作で特に強く印象に残るのは、クラウド・ラップを媒介としたUSインディ系を意識したような全体的な作風であろう。M-4「Objectum Sexuality」はまさしくそんな感じだし、M7「CPU」は四つ打ちの曲だが、ヒップホップ〜R&B系のそのテの曲が、もし銃が手元にあったら、それで撃ちたくなるぐらいのダサいトランスになるのに対して、この曲はベースライン・ハウスで、その上に乗る女性ボーカルがなんともヒプノティックな印象を受けるミニマルなトラックだ。それもそのはずでこの曲でフィーチャーされているファントグラムはNY出身のドリーム・ポップ・ユニットらしい(ユーチューブでライブ映像を見たが結構良かった)。そのファントグラムはM-10「Lines」ではエイサップ・ロッキーと一緒に共演。また、「Thom Pettie」ではキラー・マイクとリトル・ドラゴンが。「Shoes For Running」ではB.o.B.とウェーヴスが。「Tremendous Damage」ではボスコが……などなど、ジャンルの垣根をヒョイと乗り越えるような試みが、T.Iとリュダクリス、U.G.Kとビッグ・K.R.I.Tなどのギラついた南部の面々が参加している曲に挟まれて行われているのだった。

そういう意味で言えば、今の風潮に焦点を合わせたアルバムとも言えるが、'10年に自身が監修を務めたジャネル・モネイの『The Archandroid (Suites II and III)』では、R&Bを軸にしながらも、ポスト〜インディ・クラシックやガレージ・ロックを意識したような曲があったり、オブ・モントリオールが参加してたりするので、その延長線上で本格的に自分の場で好きにやってみた、ということなのだと推測する。

ただ、個人的に以前にも書いたようにインディ系と呼ばれるモノにあまり興味がないし、それらの融合と言うならば、もうじき出るエイサップ・ロッキーの新作が出たら、その惹句は取られてしまうのかもしれない、あっちはそれが標準仕様だから。さらに、もう一つダメ押しで言うならば、個人的には年末に日本盤が出たウィズ・カリファとスコット・ウォーカーの新作の素晴らしさには敵わないとさえ思う。しかし、師のドクター・ドレー譲りの正統的なGファンク的なベースラインとリズムに、クラウド・ラップ〜トリル・ウェイブ、インディ・ロック的な音楽性を無理繰り乗っけたような独特な音は、ビッグ・ボーイという人、というより磁場があったこそ出来たものであるのも事実だ。

所属レーベルとのトラブルにより、完成後3年も寝かした上で、やっとこさリリースされたものという背景もあってか、とかく評価が高かった前作の『Sir  Lucious Left Foot: The Son of Chico Dusty』の路線をそのまま踏襲すれば、今まで通りの評価を得ただろう。でも、彼はそれを選ばなかった。いや、選ぶことが出来なかったというのが正直なところではないだろうか。

ビッグ・ボーイは
インタビューで「ドクター・ドレーはとにかく挑む方法を教えてくれた。俺は単なる繰り返しは出来ないということを知ったんだ」というようなことを語っている。実験とは挑発とは声をデカくして訴えるものではない。「でも、やるんだよ!」。自分で思うままにやったらシレっと行われてることに醍醐味がある。本作はなにかを代表するアルバムではないかもしれないが、ミックステープ『808s & Dark Grapes II』がキッカケで、メイン・アトラクションズがピーキング・ライツやジャム・シティーといった他ジャンルのアクトをリミックスするという事態になったように、確実に年をまたいで、2013年に繋がる可能性を秘めた作品なのだと思う。

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Big Boi
『Vicious Lies and Dangerous Rumors』
(Def Jam)







お前の物語を人に押し付けるな!じゃあ、一体どうすればいいのだ?

フガジのイアン・マッケイ主宰のディスコードからリリースをしていたハードコア・パンク・バンド、ブラック・アイズのギター&ボーカルだったダニエル・マーティン・マコーミックのソロ・ユニット、アイタルの新作は、同じくプラネット・ミューから出た前作同様、強くダンス・ミュージックであることを強く意識したものであり、デトロイトへの敬愛をさらに深めた音ともいえる。

SE的に入る狂った電子音とつんのめった感じの焦燥的なベースラインとリズムや唐突な転調。そして、日本盤ボーナストラックの「Xlstfil」のように10分以上延々とドリーミーに引っ張っておきながら、ブチッと曲が終わって唐突にプレイヤーが停止して終わるといったラストが象徴するように、本作はとにかく野放図でフリーキーで雑。そして、ジャケのアイタル本人制作のコラージュのように、どこか整合感がなくアンバランス。

『エレキング』のインタビューによれば、ムーディーマンやセオ・パリッシュ、オマー・Sなどはもともと好きだったらしいが、むしろ、もっとオールド・スクール、例えばカール・クレイグのサイケやBFC名義で出していた初期作品群に共通するものを本作に感じる。

ものはついでに。カール・クレイグには個人的に思うことがある。リアルタイムで聴いてたわけではないけど、クレイグがサイケ名義で出した「Neurotic Behavior」こそ、デトロイト、いや、テクノというジャンル全体にとっても、異色かつ重要な曲の一つなのではないか、と。

なんだかんだ言いながらもテクノはハウスを軸とした音楽だった。ダンス・ミュージックであることが前提。同曲も最初に世に出たのはオリジナルではなく、師であるデリック・メイがリズムを付け足したエディット・バージョンだったように(今となっては蛇足という言葉がピッタリだが)、そのジャンルにおいてシンセだけで音楽を作ろうという行為自体が、当時はかなり異色だったような気がするのだ。この曲を作った際、ドラムマシンを持ってなかったから、という単に物理的理由もあったようだが、チル・アウトという言葉にもアンビエントという静謐なイメージにもどこにも絡まない(絡めない)ような奇形音楽という感じがするのだ。

アイタルの音楽にも同種のそれを感じる。本作はインディ・ハウスというタームで売られているようで、僕はここらへんのシーンについてはよく知らないけど、ブラック・アイズがギター、ベース、ドラムというバンドの格闘だとしたら、バンド解散後、TR-707をはじめとした機材を手にしたという彼がやってることは、シンセサイザーやドラムマシンといった電子楽器のチャンス・オペレーションと言うべき一人きりの格闘なのだ。ここに収められた8曲はビートこそあれ、自分が思うようにシーケンスを作っていたら出来てしまったという点において、新たな「Neurotic Behavior」なのではとさえ思う。

まあ、以上の論は大げさかもしれないし、テクノはともかくUSインディには全く詳しくないけど、10数年前、トータスの曲をデリック・カーターがリミックスした12インチEPを高田馬場のレコファンの面見せの棚からニヤニヤして抜き、その数年後、ダンス・ミュージックを自らの血肉として現したザ・ラプチャーやジェイムス・マーフィーといったDFAレーベルのレコードをあちこち探しまわった我が身を振り返ると、今はここまで来たんだと妙に嬉しくなる一枚だ。

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Ital
『Dream On』
(Planet Mu/Meltingbot)



ブロークン・フラッグのもとに集いし連中とマシューデヴィッドが抱える共通の歪み

自分を囲む円の外で鳴る、なんとも言いようがない曖昧とした音の存在──ラムレーが主宰するノイズ/インダストリアル・レーベル、ブロークン・フラッグの初期カセット作品をコンパイルした5枚組のボックスCDを聴いて聴いていると、そんな思いに駆られる。M.B.ことマウリッツィオ・ビアンギ、アンコミュニティ(正体はマッカーシー〜ステレオラブ結成前のティム・ゲイン)、コントロールド・ブリーディング、メイル・レイプ・グループ、ル・シンディカト、ジャンカルロ・トゥニウッティ、マウトハウゼン・オーケストラ、クリストウォー(以上、ところどころ読み方自信なし)。そしてアーリーズとして括られて収録されたコンシューマー・エレクトロニクス、ザ・ニュー・ブロッケイダーズといった連中が作り出す音は、同時に自分なりに魅力的な音と響きを創ろうとすればするほど、雑音の塊を産み出してしていくような「歪み」から生じているのだろう。

閑話休題。先日、LAを拠点とするトラックメイカー、マシューデヴィッドが来日を果たし、ライブとともにワークショップを行った(2012年12月9日:芝浦ハウス)。実は彼の曲はコンピでしか聴いたことがなかったのだが、そこで語った自身の音楽制作の話が興味深かった。彼はPCのソフトウェアで音楽を作ってるのだが(そのソフト名は失念)、まず1曲出来上がるとそれをカセットに録音する。そして、その録音したものをPCにまた返す。それをまたカセットに...を繰り返すのだ。その作業の途中にはテープスピードのピッチを遅くしたり、コンプレッサーやディレイをかけたり、サンプラーを通したり、さらに音を足したり引いたりしながら仕上げていくのだという。

しかし、彼がやってる手法が斬新なものかというと疑問が残る。個人的にはダブやミュージック・コンクレート、スクリューなど既成の音響テクニックの応用でしかないように思うからだ。しかし、自らの音楽が既成の文脈の上に成り立ってるなんていうことは、「パンクやローファイにも影響を受けている」といった当日の発言や、僕が彼に興味を持つキッカケともなった『エレキング』(Vol.5)のインタビューを読む限り、わざわざこちらが書かなくとも、彼自身がとっくに自覚しているフシがある。むしろ「そんな細かいこたあどうでもいいじゃん」とこちらをせせら笑うだろう。

「私はクリシェ」(X-レイ・スペックス)

当日、物販で買ったのが一緒に来日したアネノンとの共作とお互いのソロのスプリット・カセット。前者はアンビエント・ドローンで、後者は大雑把に言ってしまえばそれにリズムを加えてでっち上げたようなビートもので、曲自体はやはり習作というのか「とりあえず、こんな感じでやってみました」感が強く、特筆すべきものはない。しかし、カセット特有のヒスノイズに包まれた独特な音像にはしっかり心を掴まれるのだ。

マシューデヴィッドのオリジナリティとは作曲そのものではなく、加工して作り上げた音像にあるのだと思う。その証拠に彼はこういう風にビートを組んでとかメロディがどうだのという、作曲についての部分についてはほとんど語らなかった(加工のほうに質問が集中していたというのもあるが)。既成の文脈に則りながらも、その上で「音楽というよりも、いかに曖昧で歪んだ音像を作り出していくか」という部分に重点を置いたような姿勢は、前出のブロークン・フラッグに引きつけられるように集まったM.B.以下のノイジシャンたちと共通するのではないだろうか。

ちなみにワークショップ後に行われたライブは、カセットでの作風をさらにチャラくさせたような、変態的な怪しい色気を感じさせる電子音と、TR-808っぽい乾いたビートを組み合わせたサウス系ヒップホップ風だった。その音の構造こそ潔いまでにスッカスカだが、ベースが異様に出ており、ライブ開始後5分くらい経った頃だろうか、その低音の鳴りでPA卓にあった照明の電球のカバーがパリンと音を立てて割れたのだ。それを目撃した僕は人知れずガッツポーズをしながら、何かで読んだカーティス・ブロウの発言を思い出していた。

「TR-808の低音のフィルターを全開にすると、家のステレオもカーステも全部壊れちまうんだ。というか、俺たちはそうすべきなんだ!」(大意)

もちろん、PAミキサー自体の設定ミスだとはわかっているが、そのアクシデントでさえマシューデヴィッドが抱える「歪み」が引き起こしたものだったんだと、あれから一週間経った今も妄想が止まないのだ。

matthew1jpg.jpg matthew2.jpg brokenflag.jpg
左:Matthewdavid & Anenon(レーベル不明)
中:Matthewdavid / Anenon『Toki』(Day Tripper/DTR-C006) *split
右:V.A.『Broken Flag: A Retrospective 1982-1985』(Vinyl-On-Demand)





↑なぜ、ノイズのイベントでインナーシティの「Good Life」がかかってるんだ? そして意外とみんなノリノリ...
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RECORDer編集長。
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