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ムードマン&L?K?OのCAN YOU FEEL "BRING THE NOISE"

そもそも、彼らのインタビューなどによれば、最初のムードマンとL?K?Oのコンビネーションは、よくあるDJとMCという関係性から始まったという。しかし、スクラッチの心得があったL?K?OはMCだけにあきたらず、ターンテーブルにも手を伸ばし始め、やがて2人で4台のターンテーブルをプレイするDJスタイルにたどり着く。そして、水道管ディジェリドゥー、パーカッション、ハーレー、女性ボーカリスト、スネアドラム隊(?)、そして同業異種の大友良英[*1]をも巻き込んでいったのだった。

僕はゲームをやらないので、CMで観ただけの知識で言うんだけど、「塊魂」というゲームがあるじゃないですか。あれって転がり続けて、脈絡のないそこらへんにあるものを取り込んで、一つの塊にしていくという。テイストとしてはアレに近いような気がする。とにかく、ムードマンとL?K?OのDJプレイは、そのように、どんどんわけのわからない形へと拡張していくことになるのだった。


しかし、以前「暴力温泉芸者が解散した日」で書いたイベント〈フリー・フォーム・フリーク・アウト〉での2人のプレイは、そんな混沌とは全く無縁なシンプルなものだった。出番は丑三つ時ぐらいだったと思う。
2人の男がDJブースに立つ。4台のターンテーブル。ムードマンが今まで鳴らされたあらゆる音楽の残り香をかき消すかのように、当時『ミュージック・マガジン』の連載で取り上げ始めていた、ディープ・ハウスを淡々とミックスしていき、その脇でL?K?Oがスクラッチを被せていく。そこには、前述したボアダムスの前座や〈UNKNOWNMIX〉で見せたような「DJがレコードをプレイする」ということをギリギリまで拡張していくようなスリルはなかったと思う。ただし、L?K?Oがそのスクラッチのネタに選んだレコードが、パブリック・エナミーの「ブリング・ザ・ノイズ」だったことは、大きな意味を持っていると、この夜を思い出すたびに、ずっと思っていた。

僕が覚えている限り、L?K?Oはこの曲のアカペラしかコスらなかった。曲がオフビートのアンビエントになって、女性ボーカリストとパーカッション部隊(?)がブースの中にドタドタ入ってきて、セッションが始まっても、それには目もくれず、当時、よくやっていたように、タンテ台の上に飛び乗って、彼はそれをコスリ続けていた。
そして、たぶんの話。L?K?Oはターンテーブルに、この12インチEP、たった1枚しか乗せなかった。

もし、80年代のオリジナル・ハウスの精神が「キャン・ユー・フィール・イット」だとしたら、90年代の後半、僕がリアルタイムで体験したディープ・ハウスの精神性は、確実に「ブリング・ザ・ノイズ」にあったのだと思う。もちろん、そんな事実はどこにもないのだが、僕個人はそう思い続けている。特にディープ・ハウス・ムーブメントを牽引した代表格、デトロイトのムーディーマンことケニー・ジャクソン・Jr.の音楽は、まさしくそれに値するものである。

PEのチャックDは、ファースト・アルバム「Yo! Bum Rush Show』制作時に「卓のイコライザーを全開にかけて、それぞれのトラックの音量を最大にして、ただの騒音になるぐらいにまで歪ませて欲しい」とエンジニアに注文を付けたところ、「ここはプロフェッショナルな場所だから、そんなことは出来ないんですよ」と突っぱねられたという。

ご存知のようにハウスやテクノとはベッドルーム・ミュージック、つまり、個人が個人で完結することが可能な音楽である。そもそも、ヒップホップを作っていたということもあってか、ムーディーマンの音楽は、まるで、その時のチャックDの怨念が乗り移ったかのような音像を作り上げていた。


彼自身が、直接出向いて採取したであろう現実音。ラジオ、テレビからのコラージュ、生演奏、サンプル、ドラムマシン、その他いろいろ──それらの要素が歪まされたあげく、アンバランスにミキシングされる。それは時にはハウス・ミュージックでもなんでもなかった。なんというか、得体の知れない形をした塊だった。

それは彼と3チェアーズを組んでいた、セオ・パリッシュ、リック・ウィルハイトなどもそうであったし、そこまで極端な音作りをしてなくても、その一部として、シカゴのガイダンス、イギリスのニューフォニック、DIY20:20ヴィジョンといったレーベルの作品にも(もっとあったと思うが、パッと出てこない)、その感覚は確実に織り込まれていたと思う。


ここ日本では、1999年に宇川直宏が始めた〈GODFATHER〉で、高橋透とムードマンのハウス新旧世代が邂逅したのを引き金に、2000年代半ばには、前出の二人をはじめ、DJ 光、DJ NOBU、CMT、ユニヴァーサル・インディアンといったDJたちと、ストラグル・フォー・プライド、アブラハム・クロスといったハードコア・パンク・バンドが共演するような、今までの内外のハウス/クラブ・シーンの文脈で捉えれば、異常事態といえるようなイベントが増えていく。当時、そのフロアにいた観客たちが、それをどう思っていたかはわからない。でも、少なくとも、ムードマンのDJを(断続的にはあるが)追っかけていた[*2]、僕にとっては普通の感覚だった。だって、それは......。

音楽は、ノイズを束ねた以外の何ものでもないっていうのが信条だった。どんなものでもいい、ストリートの音でも、今こうして話してる会話でも、なんでも好きなものをまとめれば音楽ができる、それを信条としていた
。──ハンク・ショックリー(ボム・スクワッド[*3]

そのムーブメントは、2004年12月29日、六本木スパイラルで行われた〈SUN〉というイベントを経て、2005年10月15日、君津アクアマリンスタジオで行われた〈RAW LIFE〉で頂点に達する。と同時に、それを機に互いの音はどちらともなく離れていくこととなる。
その夜、L?K?Oがターンテーブルに乗せた、たった1枚のレコード。それが後に起こるアンダーグラウンド騒乱の引き金となった──と書いてしまっては、偽史的妄想に過ぎるだろうか。

moodman_lko961229.jpg
96年12月29日、新宿リキッドルームで行われた
〈フ リー・フォーム・フリーク・アウト〉より(PIX BY 筆者)。
【補足】
[*1] 僕が知る限り、大友良英とは、ムードマン&L?K?Oとして、〈MURDER HOUSE〉(
96年12月26日@恵比寿みるく)。ムードマン単独で、〈FEEL SO NICE!〉(98年1月10日@渋谷サイクロン。L?K?OがレジデントDJだった)でセッションしている。筆者はいずれも未見。

[*2] L?K?Oは、00年代初めぐらいに、当時はトミーと呼ばれていた男(現・HARLEY&QUINのLAS VEGAS)らが携わっていた、一連のイベントなどで再び良く見るようになる。まだ、ラップトップを導入して間もない頃だったと思う。イベントにはジョセフ・ナッシングやコーマ、大阪からシロー・ザ・グッドマンらが出演。ROMZ RECORDS設立のキッカケとなった。

[*3] デヴィッド・トゥープ・著/佐々木直子・訳『音の海』(水声社)より。
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RECORDer編集長。
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